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2012年06月02日

尾崎ネタのルーツ

最近Facebookもかなり普及しており、僕も600人近くの「友達」がいます。
そんなFacebookに最近、僕がマイク片手に熱唱(絶叫?)している写真がお客さんによってUpされました。え?なんで?
ジャズのお店にジャズのライブをしに行った時の事。予想外のアンコールで、ボーカルさんが譜面を探しに退場したので、少し間があいたのです。僕はMCで場をつなごうとマイクを手にしていました。と、その時に、ギタリスト氏がピアノに座り、尾崎豊の「15の夜」のイントロを弾き始めました。
歌うしかないじゃないですか!歌詞が無い!?全部覚えていますが、何か?
…と言う訳で1コーラス熱唱する羽目になったのです。それもMC付き。「今日ここに集まってくれたオマエらのために…」いや、ジャズクラブですけど!?

さて、ここで疑問。何故、尾崎なのか!?

僕の好きなアーチスト、それは尾崎豊。僕の尊敬するアーチスト、それは尾崎豊。目標とするアーチスト、それは尾崎豊。←鍵盤奏者ですが(汗)
そして、僕の尾崎豊の歌マネ、そのクオリティは半端無く高いです。自分で言うなと言うレベルを超えているので自分で言います!
高校時代から、もう20年以上ネタとしてやっていますから。物マネというか、もはや憑依とか降霊と言われますが。

高校は入りたての頃でしょうか、カラオケBOXというのが世に出始めました。当時はコンテナがルームになっていて、1曲ごとに100円入れるシステムでした。その頃からカラオケが好きで、仲間としょっちゅう行ってました。多い時は5日連続で行った記憶もあります。その次期に醸成されたのが尾崎歌マネです。

15歳の時に「15の夜」を聴きました。衝撃を受けました。抑圧、鬱憤、反発、いらだち。当時の自分の心の叫びを代弁してくれる、まさにそんな存在でした。
ギターを始めたのもこの頃。一番最初に練習したのは「15の夜」の弾き語りでした。
そんな尾崎豊が死んだのは高校3年生の時。当時朝刊をトイレで読むというオッサンな習慣があった僕はトイレで訃報を読み、驚愕しました。学校で「尾崎が死んでも、俺は一生尾崎を聴き続ける!」と宣言しました。それから20年。今でも尾崎を聴いています。
BOØWYやwink等を聴いていた10代。メタルにどっぷりの20代。ジャズを弾いている30代。常に、尾崎と共に歩んでいます。しょっちゅう聴く訳ではないですが、行き詰まりを感じた時に聴くと、色んな事がリセットされて高校時代のエキスが注入され、新鮮な気持ちで出直せるんです。

最近の若者は尾崎を聴いても共感できない、むしろダサく感じる」という記事を読んだ事があります。
若い時は親や先生に反抗してナンボ!それを経てこそ、大人になってから本当の感謝の気持ちが生まれるのに。そして、社会に打ちのめされ、負けて、自分の弱さに苦しみつつも、負け犬にはなりたくないともがく。そうやって強くなる。
…そういう姿は時代には合わないのかなぁ。

と真面目に書いてしまうほど、自分にとっては原点であり、とても大きな存在である尾崎。
でも物マネで歌う時は、ほぼネタ状態。主に後期の尾崎ライブのキャラをコピーしているので、かなりイってます。
それこそ尾崎を知らない子がみたら、完全に危ないオッサンです。ライブの余興で披露するにも、場所や客層をわきまえないと出入り禁止です。

先日、福岡は博多でライブをしたのですが、その時も余興で尾崎をやる羽目になりました。博多のお客さんに尾崎ファンがおられ、ご満悦しただけました。
最近は滅多にやってなかったのにFacebookで急激にポキュラー化した、このネタ。また、ほとぼりが冷めた頃にやらかすかも知れません!

あ、余談ですが、ウチの父親の名前が「豊」なので、N倉豊と呼ばれると、親父になってしまいます。
posted by マナヴ at 11:44| 大阪 ☁| Comment(0) | マナブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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